友人Kについて

 朝がくる。朝はいつも、誰のことも気にしないでやってくる。夜はくるまでの時間、くるまでに心の準備ができている。だんだん時間がたって、夜になることがよくわかる。だけど朝は、気づくと朝がやってくるので、いつも悲しい気分になる。悲しい気分といえば、最近は悲しい気持ちになることが多い。なにが悲しいのか。私は人が変化することが悲しい。自分の持っていたイメージ①があるとして(そのイメージも明確に自分の中で明確化はしていないのだが。)それが変化したことが怖い。話そうかと思ったが、そのイメージをことばにしていなかったので、まずはそのイメージについて話そう。

 あえて、友人のKの当時のイメージと、現在のイメージをここで書き連ねてみる。おそらくこの文章を彼は読むことがないだろう。

 

 その男Kとは、美術予備校で出会った。わたしは当時、高校三年生の夏までまったく受験についてなにも思っていなくて、当時のツイッターを見ると「将来の夢、金持ちしかないな」と言っていることからもそう思うし、当時ふと考えていたのは まあ適当に卒業してフリーターにでもなるか、という感じだった。そんな時に、母から「大学は行って欲しい」的なことを言われ、当時おやすみプンプンという漫画が好きで、サブカルっぽい女の子と知り合いたい、とか、バンドがしたい、とかのいきさつで美大に入りたいと思った。ザ・よこしまという感じがするが、他の方々はどういうお気持ちで美大に通いたいとか大学に通うと決めていたのだろうか。当時、高校の仲間たちに聞いても「まあ、ね・・・」とかそういうことを言っていて、気づくとあたりまえのように予備校に通っていたり(突然)、絶対に専門学校や短大に行くと決定していた。進路相談室にも高校の仲のいい友達は行き出していて、じぶんだけが置いてけぼりになっていた。

 まあそんな流れで美大予備校に高三の夏から通うことになる。わたしが行こうとしたのはデッサンをやる必要がない「映像科」というコースで、志望する大学も絵がかなり描ける必要もないコースで、それならできるじゃんという気持ちで通い始めた。

 

 そこで出会ったのがKという男で、知り合ってすぐに面白いと思った。

 予備校の大勢で歩いているときに、Kが「ピンクフロイドっていうバンドの、『ザ・ウォール』っていう映画がすごくてさ、」と言っていて、あ、そういうものを観る人が、この世にもいるんだ、という喜びがあったのをよく憶えている。高校生の時は周りにそういう話をする人がいなくて、こういう人に初めて出会えた!という喜びが大きかった。いまは年齢を経たからか、周りも知っていることが増えたせいか、わたしも、他人と共通したものが見つかっても嬉しくなくなったりしている。なんだか変な感じがする。

 なぜあのころは、なにかが共通すると、あれだけ嬉しかったのか。あの頃のまぶしいような感覚を忘れていって、いまは身体のどこかが痛いかのようなへんな感覚がある。中学生になる直前、ダンゴムシを見ようと思わなくなった瞬間の思いにも近い。

 

 ある時は、Kの口の近くにあるおおきなほくろから、目視でも目立つほど長い毛が一本だけ生えていて、おそるおそる、それはなにかと聞いてみると、

「これが、どこまで長く生えるか試してる」

と言っていて、不思議な感動をした。そんなことをしてなんの意味があるのだろう。メリットとデメリットを天秤にかけた場合、デメリットの方が多いのではないか。だいいち、そんなところに毛があったら「気持ち悪い」とか言われて、モテなくなるのではないか。人一倍、他人の目を気にして生きてきた私には衝撃的だった。その行動がきらきらして見えた。

 いつも彼が背負っているバッグは、あまりにも汚れていて、そんなバッグをなぜ使うの、と聞くと

「二万円くらいしたんだよね」

 と言っていた。回答になっていないと思ったが、二万円なら仕方ないか、と思える部分もあった。彼はおすすめの漫画をみんなに貸し、私はそこで全然しらない世界があることを知った。そこで彼の話す熱意のある漫画評は、なんの的も射ていないが、熱意だけは伝わる、というかんじだった。

 ある時、この本が面白くて、とちょっと借りると『バカの壁』で、Kが本に書き込みをやっていて、文庫本の本は文字がちっちゃいのだが、それをはるかに超える大きさの文字で、

「言葉では測りきれないものもあるんじゃないか!??ええ!?」とか、

「その場合、◯◯はどうなるんだよ?!」

というようなことばが殴り書きで書かれていて、すごく笑ってしまった憶えがある。

 というようなことがイメージ①である。

 

 

 

 そこから、七年の時間が経った。昨日、私はKに会った。

 Kは彼女ができたり、それなりに恋愛や挫折を通じたりしたのだろう。なんというか、思慮深さのようなものができたように思う。

 私が話の途中で、元カノと昨日、映画を観にいったよ、という話をしたら、そういう関係の女の子がいるのは羨ましい、とKは言った。そういう人、いないんですか?と私が聞いたら(年齢が一つ上なので、昔からずっと、敬語で話している)いや、そういう人とも結局セックスしちゃうからな・・・と彼が言っていて、なんだか私は悲しい思いがしたのである。特別、私がコンプレックスを持ってるからだとは思う。でも、そういうことが上手くやれる人になったのだな、とすこし悲しくなったのは確かだった。不器用で、このひとはこのあと、ふつうに生きていけるのかな、というところが消えたような気がして、すこし悲しくなったのは確かだ、入った店の女の子の店員に、ふつうに話かけているKを見た。 ああ、彼は生きていけている。

 なにかをうまくやれないひとはうつくしいよな。きもちわるいひとはうつくしいのだよ、と全力でいつも思えるようなイメージを、いつまでも憶えている。Kが急に気付いて大きな声であっ、あー!っと驚く時に見せる顔を、わたしはいつまで憶えていられるだろうか。 彼も今でもたまに、そんな顔を見せることがある。