みきちゃんの鶴

 顔を赤らめた井上みきは

「そんなことないよ」

 と言った。クラスの子供たちが、みきちゃんの作った折り紙の鶴を見て、

「すごい」「よくできてる」

 と口々に言いました。鶴といっても普通の鶴ではなく、大きな鶴だった。私も、その鶴を見てすごいと思ったが、口には出さずにいた、下品だと思った。

 私の最近のお気に入りの音楽は、トリッキーだ。このバンドは、おとうさんがよく家で聴いていた。おとうさんも、音楽を聴いている時は機嫌がよかった。音楽はわたしたちの家のなかで、特権的な存在だ。音を聞いていると、心も穏やかになる、という効果があると、実際に多くの識者からも指摘されているのは、ご存知の通りである。

 わたしたちの家という言葉で思い出したが、私は「わたしたちの家」という映画を、新宿の映画館で観た。私は現在、新宿駅の近くに住んでいる。こどもの頃は、学芸大学近くの家に住んでいたが、その家も今はもうない。というよりなくなった。

 「わたしたちの家」は新宿に住んでいるときに見にいった。新宿駅へは家から歩いて行ける。その日は、青い自転車で映画館まで行った。その自転車は、普段は私の母親が乗っている自転車である、しかし、もしかすると自分の黒い自転車に乗ったかもしれない。わからないが、自転車で行った。小学生の頃、おなじクラスの石原さんと廊下のそうじをしているとき、石原さんのパンツが見えていたので「パンツが見えているよ」と言ったら「そういうことは言わないで」と言われてしまった。

わたしたちの家」が上映していた、Iという映画館はホテル街の近くにある。大きい商業施設の近くを自転車でぐるりと回る。新宿の大きな交差点では、自転車がマイノリティで、申し訳ないという顔をして通る。しかし、なぜマイノリティのような顔をして、横断歩道を渡らないといけないのだろうか。人間が作った空間で、人間の方に罪悪感を覚えさせてしまっては、本末転倒である。そう思う私の心の方が変だと思うのは、何か間違っている。

その映画の内容については、私はもう何も覚えていない。しかし、それにまつわる、周りのことは、少しおぼえている。その映画を観てすぐ、私は大学の同じ映像専攻のともだちと話した。ともだちはあの映画を観てなにがよいのかわからなかった、と言った。高校へ行くまでの道で石原さんに、「よっちゃん(私)は、他の人のしゃべってることで笑わない。じぶんが一番おもしろいって顔をしてる」と言われたことがあった。ギャル然とした石原にそんなことを言われて、私はなにか石原という人を誤解していたように思い、その理知に敬意を払った。

 友達が面白くない、と映画を観て言ったあと、私は、「そうなんだね」といった。私は人の話があまり納得できなくても、とりあえず肯定する。なにも考えていないだけなのかもしれない。ケンカがめんどくさいので、人の話を聞かないように育った。

 そのともだちが言うには、「人と人とのドラマがない」ということだった。もっと実りのある話をされていたはずだが、内容は覚えていない。喫茶店で話した。新宿にはたくさん、喫茶店がある。件の喫茶店には窓がなく、かわりに船と乗組員がパステルカラー調に描かれた絵が飾ってあった。そんなに大きな絵ではない。その絵を時折眺めたが、なんの感想も持たなかった。小学生ならべつにいいんじゃないか。さっきのパンツの話だ。私は言われてすぐに、小学生でそんなことを気にするんだと思ったことを憶えている。