覚えてないことのリスト

 

 「最近はいつまで最近なんだろ」


 あけみはそう思っていた。でも、最近、という区切りは、ひとりひとり個人差があることで、どういうふうに区切りをつけるかは、人それぞれ全然違うのかもしれないという思考が追い越した。


 昨日は起きてすぐバイトへ行った。八時間は長くも感じない。時間は心の中で水たまりのようになって、次の日にはその水たまりもすっかり消えてしまうのだ。でも、私が二十三歳になったのは早すぎる。昨日を最近という括りで積み上げていくと、どんどん日が経つのが早くなっていくような。今日だって早かったのだ。演劇を見て、そのあとに、知り合いが出ているラップバトルを見に行った。そこで起こってることを言葉にできなくて、まとめあげることができない。言葉にしないことは記憶にも残らない。記憶に残らないことは、すぐに消えちゃうんだろうか。 


 私の頭の中はずっと空っぽみたいになっていて、というより、継続して、持続して残っている思考みたいのはどっかに行ってしまって、それは、なにもかも「そういい切れるわけではない」という姿勢でいたからかもしれない。ほかにはワールドカップを見た思い出くらいしかなかった。ワールドカップを見ても「あまり感想は出てこないな」という姿勢で見ていたし、とくに言うこともない。千葉から来た乾と話した内容も、とっさに取り出すことができない。わたしは話の内容を思い出すのがすごく遅い。いまでも思い出そうとする気力もない。少し思い出してみる。乾は昔のフォークが好きなんです、と言って、変な提灯が下がった室内で、煙草を大量に吸った。乾は右と左で色の違うネルシャツを着ていたことに、帰る直前ぐらいで気づいた。


 家に帰ってから返答できなかったことを思い返すと、あれは、最近がいつかわからなくなって、大山と一緒にいなくなってからの一ヶ月がもう「最近」の括りに入っているような気がしたからかなと思った。とくに、この人と別れてから、言うようななにか、言いたいことをストックする癖もなくなっていたから、なにがあったっけ、と自分の日常を思い出すことも出来なくなっていたのか、わたしのこの一ヶ月は「昨日」のように過ぎてしまったのかもしれなかった。楽しい、と思うときが継続していないと私は生きてる気がしないのかもしれない。「最近」のイメージは、前まではこの人に語りかけよう、と思っていると一週間くらいだった。

私にとっての最近は昨日くらい。私には二十四時間とか、そういう区切りはなくて、起きてから寝るまでという区切りだ。でも昨日とか今日ってどう決めているんだろう?それは例えば、一日ごとに記憶の幅は広がっていることと関係があるかもしれない。前までは知らなかったアーティストの名前を覚えるとする。そうなると、世界の見え方は変わってくるんじゃないか。ニトロデイを知った日、これは二十歳くらいの四人組のバンドなんだけど、起きてから寝るまで、だとしたら、起きたときにいろいろ自分は変わってる気がする。気分もそうだし、状況として、例えば明日は十七時からバイトだし、それで気分も変わってくるような気もする。誰かの前に立つと、その人の動きやなんかを見ているだけで別の気持ちがどんどん出てきて、そのおかげで聞きたいことはどんどん変わっていってしまうし、わたしの気持ちだってめちゃくちゃに変わっていく。今日だってメビウスを買うぞって思ってやきとりセンターから出て、しばらく歩くとコンビニがあった。そこで、メビウススーパーライトと言ったあとに、けっきょく六十番と言った。そのあとに陽気な気分で「ラップの極意はなんすか」と陽気に聞こうと思ってたのに、乾は想像の乾とはまた違くて、その圧にやられてなにも言えなかった。

 

気づくと一週間経っていた。ある女に会った。その女はぎらぎらとした目をしていた。一個歳が違うだけで、こんなに未来に向かって歩けような顔をしているのかとびっくりした。大きな眼鏡をかけていたら、またイメージは変わるだろう。女がトイレに行って、前からまた帰ってくると、その女はさっきまで沢山話していた女とは別人のように、孤独な顔をしていた。夜だった。左隣の大人数が座る席では男六人、女二人のグループが楽しそうに話していて、私と女はカウンターに腰掛けて話していた。女は女の顔をしていなくて、まるで男のような顔をしていた。