首だけの世界


すべての物事を、個人的に受け取らないこと。
それが私の今のモットーである。
たとえば、目の前で「お前はバカだな」と言われたとしても。
そのことでほんとうに「俺は馬鹿なのかな」と思ったとしたら、
それは俺が自意識過剰なのである。
すべての物事を個人的に受け取るのは、究極の自己中心的な考え方である。
なぜなら、そこで前提となっているのは、
「すべての物事は私に関係している」という思い込みだからである。

 

このことを、私は日々、毎日忘れないように生きている。
だが、それでも、そのことを忘れてしまう。

例えば、会社で自分が仲良くしている人が、
じぶん以外の同僚と仲良くしている。ずっと話している。
昼休みに一緒にご飯を食べに行っている。
そのことは私とは全く関係がない。しかし、
なぜか「自分が迫害されている感じ」を受ける。

 

このときの対処法は何か。
自分は大きなウンコだとでも思えばいいのか。
大きなウンコだと片付けられてしまう。便器に移動されて終わりである。

 

では何か?自分を一つの「項」ととらえればいいのか。
「項」である。三角形。三角形が会社に鎮座しているのだ。
三角形が仕事をしている。では他の同僚や仲良くしている人は何か。
球体であったり、四角形として捉えればいいのか。
ときどきそう思うのである。もし自分の見えている世界が、それほどまでに簡略化されていればいいのにと。
目が悪い人は眼鏡をかけないとわりとぼやけて世界が見えるというが、
同じように、目も耳も、ぼやーっとしか見えない聞こえない、そんな風になりたいと思う。
老人の見ている世界は、そういうものではないか。


「人間」という項目を簡略化してほしい。
「人間」は「人間」すぎる。すべてが精巧に出来すぎている。
とくに「表情」の機能がいらない。
というか「顔」が必要ない。
首から上だけ、見えない機能がほしい。
そしたら世界も明るくなるのではないだろうか。
首のない人間が歩いている。だが、自分の首から上は残しておいてほしい。
首から上がなければ、あの人がかわいい、あの人が好っきゃ、なんて気持ちもなくなるだろう。
こちらに向けられる視線もないのだ。首線はあるかもしれないが。
もう言葉も首から漏れる「ヒュー」だけでいい。
「ヒュー」の高さだけでコミュニケーションを行おうではないか。
「ヒュー」「ヒュー」だけで会議が進む。
今の「ヒュー」は考えるヒューで、俺は一人日本語を話すのだ。

 

あっ、俺の好きな田村さんだけ、顔がついていてください。おつかれっした