南国馬術週間

派遣の、ずっと立ってるだけの劇場もぎりのバイト終わりの疲れたあとの電車に乗った、ふくらはぎの痛みを感じながら座席に座った。前を見ると、何にもなれなかった松田翔平みたいな人が、座席に座っていた。松田翔平よりも眉毛が太いだけだった。なぜそう感じたかというと、中央に小さな赤文字でMoMAと書かれた灰色のパーカーを着ていて、茶のチノパンをかなり裾上げて履いて、白ソックスを見える形で印象付けていたからだ。靴は青と白と灰色で構成されたもので、何もなくて松田翔平に似ているのならまだしも、オシャレな松田翔平であることに尚更悲しさが漂っていた。そしてパーマにセンター分け。イヤホンをせずにiPhoneのスピーカーから音を聴くなどもしていた。

 

近くには、強くハゲてるおじさんもいた、もうこの人の現世は、来世までにどれだけ徳を積めるかどうかである。もう今シーズンはダメだろう。今シーズンは敗戦処理である。

 

帰り、表参道駅の喫煙所の中、灰皿の目の前でたばこが落ちていた。全く、マナーは守ってほしいものだ。

 

家に帰ると、特にしたいこともなく、日々日課となっている、南国で馬術をする男の動画を観ていた。気づくと、というより、心が荒むと、このような動画を見て、手淫に耽ってしまう。中学生の頃は、このような動画を観ること自体にすごく興奮して、こんなものを観てもいいのか、という背徳感を覚えていたのだが、今となってはただの習慣となってしまっている。

 

ふと気づくと眠ってしまっていた。

 

休日、近くの図書館に行くことにした。

家にいても、馬術の動画で手淫をするか、または歯を先に綺麗に並べた方が勝ちのオンラインゲームをするぐらいしか、ないからである。

そんなことばかりしていると、たまに自分が底の底まで落ちたような気分になるので、図書館に行って知識をつけた気になると安心する。そのために図書館に行くのは、なんとも悲しいことであることもわかっている。

図書館の中は大抵おじいさんか暇そうな主婦ばかりで、来るたびいつも思うのは、老人になったらずっと図書館に居れるといいな、なんてことである。

 

面白い本があった。

そこに書かれているのは、記憶はなんであるんだろうか?ということだった。

ベルクソンという人は記憶を、「そこにあるもの」から生起するものだとだと書いたそうだ。

どういうことか。 自分の記憶というと「わたしだけが持っている、唯一の記憶」なんてふうに普通は思うが、実は”脳の中にだけあるもの”ではないということを言うのである。 なんてことを言ってるんだ?馬鹿じゃないのか?

 

しかし、例えも書いてあった。 

 

いま私が座っている図書館のソファーの前には、図書館の職員が作った本棚と、掛け時計がある。わたしはふとその時計を見た。時計、こんな時計は、昔高校の教室にあったような気がする、と思った。

例えば、このように今そこにある時計から生まれ出る、相互的なものだと。

つまり、触れているもの、見ているもの、そこから記憶はなんども顔を出す。数珠繋ぎ的にいろんなものが連想されていく。記憶は私の中だけにあるものじゃなく、触れているもの、起きた出来事、によってどんどん掘り起こされていくんだ!嬉しいハッピーなことを考えれば、私だって幸せになれるんだい2021!と思った。

 

帰って昼寝をした。夢で、昔働いてた本屋のバイトの店長の諏訪さんが出て来た、まだ働いていて、白毛まみれになった諏訪さん。よく店長とも話してた、ことを、もぎりのバイト中ずっと立っていたから思い出したから夢で見たんだろうと思う。

 

図書館の帰りに、白蛍光灯の下で、同乗していた馬の太ももを静かに、だがじっくりと見ていた。飼い主の男は金髪だった。得意げな顔で馬を飼い慣らしている。

私はいつになってもあんなに立派な馬を育てることはできないのだろう。あの男に私は何も勝っていないんだろうと思う。その自信のある顔ぶりや、馬のことを「お前」と呼ぶなんてことは私にはできないし、自分がジョッキーであることを全面に押し出すように、七色のサングラスをかけるなんて、どれだけ自分がジョッキーだということを信じていればできるのだろう?

 

その馬は、中学生のころ見ていたニコニコ生放送に出ていた、生馬主に似ているようだが、似ていないようでもある。馬の上にある、あのカーテンのようなつけ物は何と言うんだろうか? 馬のことが大好きだが、私は馬のことを何も知らない。

 のれん的なその「分け」が蛍光灯の下で、家に帰って到着したらまた思い出せそうなエロさだった。馬は片方の脚しか見えてなかったけど、今見たらまんなかに寄ってきていた。私は将来は、金持ちになり、馬術を好きな時にする、くらいしかしたいことがない。