小さな恐怖

 

 

 二日に一度、といってもそこまで多くない時間、石橋遥は意味のないことを考えた。たとえばオアシスの「Live Forever」を聴くとき、聴くときというより聴き始める瞬間に、昔のことをふと思い出すこと。この曲を聴くとき、毎度、昔バンド募集で連絡してきて仲のよかった男のことを思い出すのだ。彼は三・一一の地震がきたときにこの曲を聴いていたらしく、音楽に詳しい彼がオアシスを聴いていたことに驚いて、そのせいかよく覚えているのだろうが、この曲を聴くたびにそのことを思い出す。

 

 だいぶ長い間、石橋遥は自分のことがわからなくなっていた。私にはルールがないように思えるし、しかし見えないところで変なルールに縛られているような気もする。虫が怖いことはわかる。だけど虫以外のことは、どれだけ怖いのか。高所も怖い。それは何年も前に付き合っていた男と観覧車に乗っていたときに気づいた。この薄っぺらいプラスチックのような乗り物から、じぶんが今歩いていたところが遥か下に見える。すぐに地面に落ちてしまいそうな気持ちになり、わたしは落ち着かなくなって彼に向かって怯え続けた。「こんなプラスチックの乗り物で、すぐ落ちちゃわないかな」と冗談ぽく言おうと努力したが声が震えた。

 彼はそのとき「大丈夫?かわいそう」と言っていた。そのときは「かわいそう」という言葉に腹が立ったことを覚えている。観覧車のまわりはしばらくすると暗くなってきていて、そうなると下がよく見えないのであまり怖くなくなった。人間が虫とかの小さな恐怖に怖いと感じるのは、ほんとうに怖い死というものが近くにないから恐怖を感じられる、という話を聞いたことがある。そういうものだろうか。

 その彼と別れたことの直接的な理由ではないが、石橋遥なりになにがいけなかったかの理由を考えてみるに、台所での出来事がある。そのときは彼の家にいて、家でご飯を食べた後に、遥が食器を洗ってあげようと言って、台所に行った。シンクと言えばいいのか、コンロの横のスペースに、泡をつけた食器を乗せていくと彼がそこにきて「え、そこに置くの?」と言い、「え、だめ?」と遥が言うと彼は「汚くない?そこ・・・」と言った。自分の家なのに汚い場所があるんだとまず思い、「いや、でも、最後流すし」というと、少しの間が空いて、「いいや、俺やるよもう」と言う。わたしは自分が食器を洗ってあげている、という気持ちに優越感を感じていたからかわからないが、腹が立った。自分の家のルールと違うのは仕方がないのだが、ここでちゃんと口論したり、意見を言うようなふたりではなかった。そこで感情をぶつければちがう未来もあったんだろうが、私もそれを望んでなかったんだろう。

 

 私はいまでも彼からもらった靴を履いている。