お茶のレビュー

 家の台所にパスタを入れているプラスチックの缶があるんだけど、そこにパスタを入れているわけです。パスタを入れるためのその缶にパスタが入っているわけで、それを用いてパスタが入っている。これパスタ入っている容器。

 うちの家のコンロ上にやかんがあって、それを使ってお茶を沸かしたりしているんですが、いまだにやかんを使ったりするのは、非常に不思議やと思う。

 昔、わたしが野球をやっていた頃は、お茶だしのパックを水にさらして作っている家庭も多かったわけですが、そういう家庭の麦茶なんかを、飲むとおいしいわけです。他人の家で出てくる麦茶っておいしいよね、みたいな話は、金輪際一生聞きたくない。もう聞き飽きた話はしたくないんですよね、都会に住んでいる、んですが、私はね。免許持ってるか聞かれたときに、持ってないです。って言うとだいたいの人が「まあ都内ならいらないよね」電車とかあるし、と言うんですが、もう五十回くらいはそういう話のルートになっていて、私よりもよっぽど無免許ですよなんて思うんですね。

 

 話変わって、麦茶に限らずですが、お茶の下にできる黒い点々たちがありますね。あの、ちょっと汚い。あれらは一体何なのか考えてみると、あれらはお茶の意志なんですよ。賜物なんでしたよ。お茶が最後に出す、すかしっぺといいますか、お茶ですよ我々はお茶、お茶だったんですよと発表する場、プレゼンテーションなわけです。発表会なわけです。発表会といえば、小学生の頃の女子のなかに、クラスのメイトの前でなにか発表するとき、涙目になる人がいましたよね。そういう感じでお茶も涙を流していて、それが黒い点々なわけですね。彼らは女子ですね。お茶の茶という字も、かわいい女の子に見えてきますね。スカートを履いているわけですよね。茶という字をよくみてみるとスカートを履いているからね。お茶の家にいくわけですね。お茶の家に行くのは、今日が初めてなわけです。たまたま、同じサークルの仲間たちとじゃあ、あいつの家で飲もうとなって、深夜になったときに、私はお茶の家に行くわけですね。今日は遅いから寝させてくれなんていって、茶柱が立つわけですね。お茶の家のカーテンが私の感性からは想像できないような女の子っぽいカーテンなわけですね。しかし、いざそのときになって、私がお茶を押し倒すと急須で入れたお茶がこぼれてしまった。ああ畳を拭かないとね。

 

 私は、他人の家のおにぎりは食べられないんですが、あるとき、ふと他人の姿に、自分の面影を感じ取ってしまうと、その人が他人とは思えなくなってしまいます。私はこのときお茶をこぼしてしまった、そのとき、そのときといってもさっき言ったそのときではなくて、これは最近のそのときなんだけど、柊くんは、焦って、あーあーと新築の家にこぼしたコーヒーを一所懸命に拭こうとしました。だけどその場にいた俺だって成瀬だって、全然動こうとせず、しょうがなく、柊はひとりで掃除を始めた。俺は俺で、麻雀のアプリのゲームをやっていたので動こうとはせず、本当に中国のアプリなのかなこれっていうくらいいいアプリで、ほとんど一ヶ月くらい、そのアプリをずっとやっているわけですが、そんなふうでいいのかなって思う日々は遠く、遠く、チキンレースの日々であります。麦茶は飲めるんだけど、残念ながら、他人のお母さんが握ったおにぎりを食べて吐きそうになったことがある。

 そのお母さんのことも嫌いなわけでもないけど、なぜだか吐いてしまったのだ。おにぎりは手で握られている。つまりはその人の人生をかけた握りなわけですな。握って握ったそれは、もはやその人の手です。あれはもう一個手を作ったようなもので、わたしはそのお母さんの手を食べているのと変わりがないわけです。カニバリズムじゃないですか。

 他人の家の麦茶は大丈夫です。そりゃあ、プラッチックの、だいたいは、容器に入っているからね。麦茶をごくごくと飲める家庭に私はいなかったもので、他人の家に行った時の麦茶はおいしく感じましたね、それはおにぎりとは別様のものですから。お茶に手は介在していませんから。お茶は手ともっとも離れた場所にあるのです。手は雑菌だらけみたいな話もよくするわけですが、私はそんなことは忘れて今は女性のことを考えています。女のおばさんのことは考えません。考えるよしもありませんでした。手は雑菌だらけと言っても、自分の手は自分の手ですから、汚いなんて思わないわけですが、他人の手は怖いです。それはまったく私とは別のエンジンを持った車ですから、どのように動くかわからないなんて、交通事故も甚だしいわけです。