実際の彼ら

 

 私は知っている固有名詞はわりかし多い、と思っている。フッサールとか、赤瀬川原平とか。 だが、その内容について聞かれたとしたら、何も答えられない。私は、数字でいうと6みたいな人間である(小さい数字だし)。そうこうしているうちに、黙々と焼き肉を焼き続けている人間に成り上がった。

 私の固有名詞の知りかたを例えるなら、世界という森のなかで、分岐した道の入口に、看板を立てているような感覚だ。ここは貝。ここはコチョウラン。しかし、それも、多分ここ、という感じで、進むつもりがない。この場を俯瞰するつもりもなく、立ち止まるつもりもない。進むつもりもない。ただ看板を立てて満足している。その道がどこに繋がるのかもわからない。手前勝手に、自分の手で看板を描き下ろしているような感覚だ。作家先生だ。 自分ではここに看板を立たすのは間違いじゃない、と思っている。その先の道のことを考えたことはなかった。私が私の位置を確認するのは、良いことなのでしょうか?

 カルビを焼くこと、を今私はおこなっているが、実際に頭の中で焼き肉を焼く、と考えているわけではない。 焼き肉を催している人は、「ああ、今、僕(私)は焼き肉を焼いている」と考えているのだろうか? 焼き肉を焼く、という言葉はすごく馬鹿な表現だと思った。  実際の彼らは、肉を焼いているその時に、さもありなんという顔で、実際は焼き肉の「焼き」を削除している。 本当は、気持ちの上で「ハラミ、肉だ、ごはんだ、あったかい」と思っているだろう。あったかい、うめぇ、あちぃ、と瞬間的な言葉で、物事が解決していっている。 後ろにかけた上着に臭いが付いていないかどうか、などと考えながら食べている。 焼き肉というのはとても原始的なネーミングだ、食事に彩りを加える気がない。

焼肉を焼く七輪の上には、大きな管がある。焼肉屋の上では、さらに大きな焼肉屋のような生物が管理している。そいつの血管が、私達の煙を排入し、生きながらえている。私達が焼いたカルビ、手羽、タン、レバー、滅多にお目にかかれないエリンギ、ホタテ、そして手羽が焼かれていく。焼肉屋の上の大きな焼肉屋はそれらを焼いて出来た灰を吸引していく。 この店では、黒いTシャツを着た人々が、右往左往しながら食事を運んでくるのだが、彼らには趣味はないのだろうか? 音楽を聴いたり、順番に鹿を蹴るなどの道楽をした方が、彼らのためである。 それにしても、彼らの背中には何やらタトゥーが彫ってあり、「味いちばん」という相田みつを風のポップが彫られていた。 焼き肉を人々に渡しながら、さらに背中にタトゥーを彫るとは、見上げた人々だと私は思った。