プラスチックの欠如が何度も目に被れる

当時私のツイッターのアイコンは牛乳パックに顔がついたキャラクターのアイコンで、けっこう好きだった、でも誰かから
「そのアイコンにしてる人、めっちゃ見る」
と言われたのが何となく頭に残っていて、しばらくして変えた。
そういうふうにじぶんを他の人と区別したいと思うのは、人として小さくて、むしろそこが素敵だと思う。

当時、例えば立って横を向いてる人を描こうとするとだんだんその思い描いていたイメージとはかけ離れて、まったく別の姿勢になるのを、止められなくなっていた。先生からは「絵がうまい人には描けない、味のある絵」という評価を得た。

こうしたことは今でも思い出そうとすれば思い出せることだけど、ふとしたときに忘れてしまう。だけど、1つの点を思い出すと2つ3つと点が出てきて、今だけはその事を思い出せる。

私は当時牛乳パックのアイコンのときにダイレクトメッセージで、会ったばかりの女の子にご飯に誘っていたが、そのときもわたしは牛乳のアイコンでそのやり取りをしていたと思う。ただやたら滅多にご飯の誘いを断られて、その子は私が高校生のころに好きだった女の子に顔が似ていた。

予備校に行くと絵の評価を下した女の先生はいて、その人はまた髪の毛を真ん中で分けてパーマがかった髪型をしていて、ふだん昼ごはんを食べに行く男子5人組のうち私含む3人はその先生のことをずっとかわいいだなんだと話していて、その足取りですき家に行ったり丸亀製麺に行ったりしていた。
ある日、丸亀製麺に行ったときに、予備校の男の先生、これは主任のような立場の人だったが、一人で食べていて、私たちは無言でそれを確認して、私も何故か悲しい気持ちになった。

予備校は初台の駅にあった。明大前から下北沢、三軒茶屋に帰ってくるまでの自転車で、やけに下北沢に入り組んだ路地があって、そこは住宅街だった。なぜか明大前から下北沢に向かう道では一回、高いところに出る。まわりは住宅街なのでほとんどなにも見えなかったけど、高くて綺麗な道からは、家の少し少しの点が光っている。 そこで自転車で止まってふと眺めると、点と点と線が空に向かって伸びていて、私は高校と予備校のあいだの線を移動して、この夜をひとり私だけのものにしていたように思う。 今もなお、私の好きな女の子はずっと真ん中分けである。