ペンギンと戦う男


 昨日、空を見たときに「都会にはこんな風景がなくていいな」と思った。実際には都会には云々と思ったわけじゃなく、ああ、という気持ちだけを感じた。 久々にこの風景を見た、という気持ちだった、ほぼ自動的に思った。アニメで見るような入道雲だと思った。アニメの方を思い出すなんて、それも良くない、と瞬時に思う。この感情の動きのセット、俗にアンハッピーセットと呼ばれている。
 ここに旅行で来れたら幸せだと思った。浦和スタジアムにいくまでの道のりで、直線をずっと歩いていく。山と空以外の物はなに5つなかった。
 他人が何を考えているのかわからない、それは多分、自分が何を考えているのかわからないからそうなっている。 誰にとっても誰かは誰かで、私は誰かにとっての何かである、ということが定かでない。
 十年前、海に行った。私はそこで女の話を聞いていた。夕焼けを何人かで見つめていた。あんなにゆっくりした時間は感じたことがない。
 うんうんと頷くことしか出来ない私を女は「聞き上手だね」と言った。後からその思い出を美術予備校に通っていた時に作品にしたら、それを女の先生は「この子ビッチだよね」と言った。驚いたけど腑に落ちてしまった。腑って肝臓らへんなのだろうか。補足をするのだが、腑に落ちるプロセスには理論や道筋なんてものはない。その発話者である先生のことを信じていたから起こった。
 このとき、発話者である井川先生は、多数の生徒、そして他の講師へ向けてそのようなメッセージを発していた。 だが、私の頭の中にも、ある単数のメッセージが複数の受信回路によって意味を繋いでいた。 ちょっと長くなりましたが笑 何を言いたいかというと、私が受け取った「この子(ただし、この子と先生が言ったかどうかは確かではない)、絶対ビッチだよね(ビッチという言い方だったかどうかも確かではない)」という言葉は、私のなかでまた思い出すくらいには印象的な言葉だった。それは、私がその「聞き上手だね」と言った言葉をこのように解釈しているからだ。解釈をしたのは私だ。 歯が黄色い大人にはなりたくない。
 その先生は私を「布田は大丈夫」となんの理由もなく肯定した。そのことを三年前までは心の支えにしていた。腑に落ちるというのは言葉の内容じゃなくて、言い方とか、特に発話者が自信を持ってそれを言うことで起こるもの、と思うのである。


たとえ「烏は存在しない」という無理をした言葉でも、自信さえあれば烏は存在しないのだ。


 人間に内面があると言ったのは誰だったか。私ではない。 内面は隠すから現れる。言わなかったことだけが内面になるんじゃないか。私は今さっき話していた女の子にどうしてもゲッツと言えなかった。話すことは外面だ。だとすると内面が濃い人間は溢れんばかりの外面が嫌いなの。


 以上のように思ってもいないことを考えていないと、私は私の形でなくなり、どろどろの私になってしまう。これは比喩ではなく実際にである。
 無意味なことには意味がある。無意味のなかで意味のあるものは何か。第一に言わせて頂きたいのは、言葉の繋がりをばらばらにすること。言葉はそれ自体では壊れることはないが、綻びがあれば壊れる。ペンギンが空を飛ぶ、という文を作るだけで事足りる。ペンギンって空を飛ばない。飛ぶのかな?しらんけど ペンギンって羽が生えているけど飛ぶことが出来ない。私の理解できないところでペンギンにとって何らかの意味になっているのかな。ここはちょっと難しい。飛ぶかもしれないし。
 一方、無意味のなかで意味のないものもある。時間がただ過ぎるということ。時間がただ過ぎる、なんの目的もなく過ぎることが不安だった。時は金なりって言葉が日本にはあるんですけど、知らないんですけど。時は無情にも過ぎていく。そういえば「無情」って思ったことがないけど、必要あるんだろうか。「名目」も要らないと思う。

 私がどのようにじたばたしようとも、じたばたした分だけ時間は過ぎる。嫌やな。
 わたしは今日本語でこの文章を書いている。あなたは今、日本語でこの文章を理解している。
 そこの人が使う日本語と、ここにいる私ってやつが使う日本語は同じ言葉だろうか。君らは俺の汚れたリュックサックを見たとき、「若干黒いですね」と思うだろうか。それよりも夕飯を何にしようか考えているのかな。
 私以前、私以後の話をしよう。私以外の話をするというのは、私を介した世界についての話になる。私を介してしか外を見たり聞いたりすることは出来ない。私が辛い。私が可能になるのは、映画や本やフィクションの世界でしか成り立たないのかもしれない。私はYoutubeを見る。Youtubeは私を見ない。こうした世界からしか、私は他者を見たり聞いたり、触れることが出来ない。
だが、私が私でなく、何者でもないなにか、であれば世界を見たり、聞いたりすることは出来る。私。