猿の件

「干していた猿が落ちてきたじゃないか」
風太くんは思った。
干していた猿が落ちてきたとき、私はテレビで缶詰めが流れ落ちるビデオを観ていた。映像中では曲が流れていて、なんか知らん曲やったから知らん曲やわ、と隣りにいた奴に話しかけたら、そいつは「英語がカレーくらい面白かったらすぐ覚えられるんやけどなあ」と言っていて、そりゃそうやろアホか、と私は言ったけどほんまにそれはそうやなと思った、私はその時なんの話を隣のやつとしていたかは忘れていたが、物事を覚えるにはどうしたらいいか、好きなものはすぐに覚えられる云々、という話だった気がする。
ビデオの映像の缶詰めからは今度は豆的な物が落ちてきて、豆的な物が落ちてきてるやんか、豆的な物が落ちてくるような映像はあんまり見たことがないやんか、豆的な物って豆以外にはなにもないやんか、と思いつつも窓の外では勿論依然、干していた猿は落ちてきている。
干していた猿というのは何かと便利で、駅に放置すれば、臭すぎて「絶対に殺す」と駅に落書きが増えるし、病気の子供がいれば、もっと病気にすることもできるし、と踏んだり蹴ったりの糞動物である。もはや猿ではなく臭いだけの箱と呼んでもいい代物だが、これがなくては夏は越せない。夏に猿を干すのは一種のステータスとなっている。私たちの家は潤っている、だから猿を干すことにも何ら問題がない、とそうした指標なのである。
指標としての猿が今落下してきている。
私の視線は未だなおテレビの画面を注視していた。今度は犬をボコボコにするパターンの柔道がやっており、犬をボコボコにするパターン→下痢便を祀るパターン→お米を家の壁に貼り付けるパターン、の黄金比とも言える笑いのパターンだったので、私はああ、またこれやんね、と隣のやつに言うと「ほんまやな、もうええねんこういうの おもんないねん」と言って、自身のチンコにピストルを何発か打ち込んだ。
窓下に落ちた猿をまあ、一応ね‥と二人で見に行く。猿はプレステの起動音と同じくらいの面白さで地面に転がっていた。これどーすんねん、と私が言うと「もうええんちゃう、こいつこれがおもろいと思ってるやろ、その発想がもう寒いねん」と猿を干したやつにも落ちた猿にも吐き捨てるように言い、私はさすがに猿に同情した。
そんな、そこまで言うことないやん、と私が言い終わる前に彼はチンコにピストルを一打ち、影響を受けた人物に一打ち、駅構内の手すりに一打ち、メーリングリストに一打ち、エビちゃんの宣材写真に一打ち、チンコにピストルを一打ち、ピストルのチンコに一打ち、エリンギのきめ細かな繊維に一打ち、履修生のこめかみに一打ち、マクドナルドの店内で仕事してる人に一打ち、外人のお墓に一打ち、手や足、心臓など、急所と呼ばれるところ一帯を一打ち、するとそのまま寝てしまい、男は駅構内の臭い猿の横に置かれるようになったけど3ヶ月したら撤去された。俺は結婚をして子供ができて元気だったが昨年大きな鼠に殴られて死んだ。